「高杉晋作」という男 もし、今生きていてトランプと交渉したら面白いだろうなw
最近多くのブロガーさんが山口県の紀行を掲載されていて、いずれも大変興味深く拝読させて頂きました(⌒∇⌒)
というのは、「高杉晋作」という江戸末期に活躍した長州藩士には昔から大変興味があり、その縁のある場所の写真や訪問記を見るだけでも、ワクワクしました。
高杉晋作の関連する小説も色々読みました。山岡荘八の「高杉晋作」、司馬遼太郎の「世に棲む日日」、古川薫の「我が風雲の詩」、秋山香乃の「晋作 蒼き烈日」など。
歴史上の好きな人物というより、歴史上大変「興味のある」人物というとらえ方かな。
何が凄かったかなぁ?と小説を振り返り、自分なりに整理してみると、以下の3点です。
① 歴史的にみても稀な「イノベーター」であった!
これは「奇兵隊」という舞台を組成したことで明らか。
武士以外は戦闘に参加しないという当時の風習を断ち切り、人口が圧倒的に多かった農民を戦闘部隊に組み入れたこと。
後から考えると当たり前のようだけど、当時はだれもやらなかったことをやり遂げるのはイノベーターとしての思考力と行動力があったからだこそと思います。
奇兵隊が組成されていなければ、明治維新も早々に達成できなかったでしょう。
② 戦略家で類まれな勇敢な武士であったこと!
「功山寺挙兵」で長州藩を倒幕へと導いたこと
当時の長州は、禁門の変や馬関戦争でへとへとになり、幕府の軍門に下る方向で動いていました。それに待ったをかけたのが高杉晋作。それを支持するのは伊藤俊輔(のちの伊藤博文)や井上聞多(のちの井上馨)と極少数。
長州藩関係者の9割以上は、幕府への恭順を決め込んでいました。
そういう中で、高杉晋作は州を倒幕に導くべく功山寺という寺で挙兵。
最初は無茶・無謀といわれていましたが、少数舞台で連戦連勝を繰り返し、最終的には長州藩を討幕派に導いていたことは、勇敢でなければできない行動でした。
周旋家として能力のあった伊藤博文も、当時の高杉晋作を「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し」と称していました。高杉晋作は結核で29歳という若さで明治維新直前に亡くなりましたが、明治を生き延びていたら、どういう人物になっていたか?想像するだけでもワクワクします。
③ たぐいまれなネゴシエーター!
禁門の変などで長州がへとへとになっているというのに、下関で英国艦隊などに攻め込まれ長州は壊滅状態。そこで、英国との停戦交渉の場に、長州の総代表として高杉晋作が送り込まれました。
紛争は長州のぼろ負けで、交渉は不利になるのが当然と思われていましたが、和解金は幕府へ付け替えさせるように交渉し、下関にある島を租借しようとした英国の要求を完全に突っぱねて、さほど痛手の残らない形で停戦交渉を終結しました。当時、幕府が諸外国に対し弱腰外交に終始していたのとは全く違います。高杉晋作が上海に渡航したときに、清国が英国に蝕まれていた様子をみて、弱腰になると一気に飲み込まれるという危機感もあったのでしょう。高杉晋作のような人物がトランプと交渉したらどうなるか?考えるだけでゾクゾクします。
余談ながら、高杉晋作が上海で購入した短銃の一つを坂本龍馬に贈呈し、のちに坂本龍馬が池田屋で襲撃を受けた時、この短銃が役にたったという逸話もあります。
山口県は遠いですが、都内にも高杉晋作の痕跡はいくつかあります。
その一つが、品川の土蔵相模跡
北品川界隈に東海道五十三次の最初の宿場町「品川宿」がありました。
そこにあった「土蔵相模」は長州藩のたまり場で、高杉晋作もよく出入りしていたようです。
いまは、北品川商店街となっていて、土蔵相模の跡地にはマンションらしきものが建っていました。
建物の面影は一切なく、案内だけが歴史を感じさせてくれる、というちょっとした淋しさもありました。
長州旅行は老後の楽しみにとっています(笑)



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